2006年6月11日 (日)

再び盗作画家のこと

くだんの和田義彦画薄(もとい伯)は依然盗作を認めないばかりか共同制作だとかオマージュだとかわけのわからないことをいって人を煙に巻いているようです。そこで気がついたことがあります。彼はかって長期間欧州に留学したと聞きます。そこで彼はいわゆる欧米の罪の文化に汚染されたのではないかと思います。罪の文化の人はもし自分が正しいことをしていると確信すれば周囲から笑われても恥ずかしいと思わずむしろ周囲が無知だと考えるそうです。そしてそれにうなずいて、いとも賢そうに賛同し彼を弁護する有名人やら解説者が出てきて始末が悪くなる一方です。つまり彼は日本の恥の文化を忘れた芸術家といえるのではないでしょうか。そう考えると安田火災東郷青児美術館大賞やら芸術選奨文部科学大臣賞を授与した選考者や文化庁の関係者を見抜けなかったそしりをまぬかれないと非難するのは適切ではなくなります。いみじくも東郷青児美術館大賞の主催者が大賞取り消しの際吐露した「裏切られた気持ちでとても残念だ」とのことばは即ち日本人の一流の芸術家であればまさか盗作を行うとは夢だに思わなかったに違いありません。それが日本の恥の文化に慣れ親しんだ当事者の当然の存念と思うからです。
ちなみに和田画伯がパクッた作品を盗作と判定する最終決着の法的手続きとしては、パクられたアルベルト・スーギ氏が和田画伯を告訴するしか方法がないといいます。アルベルト・スーギ氏は告訴するつもりはないといっていますのでこのままうやむやに済まされる恐れがあります。そうならないよう和田画伯が自ら盗作を素直に認め謝罪することで決着をみたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年5月31日 (水)

罪悪意識欠落症候群

悪いことをしているという意識のない人は社会保険庁(社会保険事務局、社会保険事務所)のお役人だけかと思っていたらナナナント今度は絵描き屋にも出ました。こういう人を今後「罪悪意識欠落症候群」と呼ぶことにしましょう。その人は画家の和田義彦さん。イタリアの画家アルベルト・スーギ氏の絵を盗作したものです。パクリとも言います。たぶんこの人の絵は焼却せざる限り日本の贋作作者の名を歴史に残すことになるでしょう。空間とかマチエール(材質的効果)とか色彩とか材料が異なるといい当人は盗作を否定しているようですがそれはこじつけそのもので誰が見ても盗作であることは明々白々です。疑いを挟む余地はありません。なのに挙句の果てはピカソだって盗作(!)そのものだと嘯いているようです。ということは盗作と認識していることになり矛盾するのですがとてもその分野において名を馳せている人の発言とは思えません。なおそのような贋作で安田火災東郷青児美術館大賞と芸術選奨文部科学大臣賞を授与されているのは選定にあずかる有識者も底が結構浅いものだということになりますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月29日 (土)

祝村山富市元首相桐花大綬章受勲

ナナナナンとあの村山富市元首相が最高位の桐花大綬章を受勲するという。

阪神大震災時首相の座にあった村山富市氏は自衛隊の出動発令に遅れをとったことから救助活動に支障をきたしそのため2000人とも3000人とも言われる命が失われたとも言われている。また自衛隊の出動を決めた後でもその人数を制限するというとんでもない首相活動をしている。

そればかりか海外からの救助隊を受け入れるに当たり出迎え準備が出来ていないといったり、救助犬の検疫がどうのといって被災者の顰蹙を買った。

そしてあろうことかクリントン当時米国大統領が救援のため第7艦隊の派遣を申し出たのに己の反軍思想に従いその申出を断ったため大統領は激怒したとも伝えられている。

また戦後50年の終戦記念日に「遠くない過去の一時期国策を誤り植民地支配と侵略によってとりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた。この歴史事実を謙虚に受け止め痛切な反省の意を表明し心からお詫びの気持を表明する」といういわゆる村山談話を公表したがこれがいつのまにか政府の公式見解であるかのように一人歩きして、日本を自縛する終わり無き謝罪のきっかけをつくり後々の日本外交を拘束し今日に到っている。

そして村山村山富市氏は従軍慰安婦問題でも「アジア女性基金」なるものを財団法人として発足させ女性の名誉と尊厳を深く傷つけたそのお詫びと称し元売春婦に200万円の大金をばら撒いている。

以上が己の思想と信念まで翻し首相の座を占めた村山富市氏の歴史に刻まれた活躍の一部である。

ナントメデタイコトカ。

春の受勲の季節がやってくるといつも思い出すのが93歳で逝った母のことである。

 母が逝った。享年93。夫に先立たれてから子供たちの世話を断り、毅然として一人住まいを続けていた。静かで穏やかな往生であった。

 今、戦後の生活から記憶がよみがえる。掃除機があったわけではない。洗濯機があったわけでもない。氷点下の北国の冬で、使えるものはほうきと洗濯板と己の手、そしてくみ上げる井戸水だ。炊事だって、電器釜があるわけではない。あるのはなべ、かまと薪ストーブだけ。

 八人の子供に亭主を加え九人分の炊事。九人と自分の足袋を縫い上げる姿も目に浮かぶ。一体どうやって過酷な家事を一人でこなし得たのか、今更ながら神懸かりに思えて仕方がない。しかも、この間、愚痴一つ聞いたことがなかった。春の叙勲も秋の叙勲も関係ない。戦後の高度成長を陰から支えたのは、このような人たちではなかったか。

 偉大な明治女の母親に桐花大綬章ならぬ三重花丸の国民栄誉賞をあげたい。

| | コメント (0) | トラックバック (1)